因果応報な日々

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「合祀」か「分祀」か

慰霊碑に運転士は祀(まつ)られるか

(全文を引用したいのですが、長いのでかなり乱暴に抜き出しています。できれば、リンク先で全文をお読みください)

■「高見運転士」という戦犯 ■

 運転士も含め107名が亡くなられた事故。犠牲者を悼(いた)む慰霊碑が必ず立てられると思う。
そのとき、事故を起こした高見運転士は慰霊碑で祀(まつ)られるだろうか。

「高見運転士の重大な過失によって殺された106名の犠牲者たちは、戦犯である高見運転士までがいっしょに祀(まつ)られる(=合祀される)ことに納得できるだろうか」という議論……。
「戦犯である高見運転士を祀った慰霊碑に国土交通大臣が参拝するなら、それは高見運転士の無罪を認めることになるから、国土交通大臣は参拝してはならない」という議論……。

■「本人も無念なのでは」■

 しかし、高見運転士もまた底知れぬ無念のうちに亡くなったであろうことも間違いないのだ。
≪幼いころから同級生などに「電車に乗る仕事がしたい」と将来の夢を話していた。≫と、昭和の日の産経新聞は伝えている。
≪高校時代には近くのスーパーでアルバイトをするなどして家計を助けていた。成績は常に上位だったというが、経済的な事情から進学せず、高卒後JR西日本に就職する道を選んだ。≫

高見運転士は必ず「合祀」される。
 この慰霊碑に首相や国土交通相が「公式参拝」したとしても、それは高見運転士の「無罪」を国家として認めたことにはならない。
そういう議論を超越して、非業の死を悼(いた)み、「我らの社会に対してけっして祟(たた)らないでください」と祈るのが慰霊の意味だから。

■「祀(まつ)る」ことと「無罪を認める」ことは別次元 ■

祀(まつ)ることは、「無罪」を主張することとは別次元の行為だから。
 高見運転士を慰霊碑に「合祀」し、これに国政の長が「参拝」したとしても、それが高見運転士の「無罪」を国として主張することになるわけではないように。

 私は、尼崎の脱線事故における責任の大きな部分は、高見運転士にあると思います。事故以前の不適切行動・運転事故、そして事故当日のあまりにも不可解な動き(宝塚駅でのATS作動による2度の自動停止はあまりにもおかしい)。無論、このような不適格者に運転をさせ続けたJR西日本の責任は、より重いといえます。

 とはいえ、高見運転士が殺意を持ってあのカーブに突っ込んだとは考えにくい。言われているように、遅れを取り戻すために必死だったがゆえに事故が起こったというのであれば、職責を果たそうとしたのだとも考えられる(制限速度をオーバーするという職責の基本中の基本を全うしていないが)。その意味では、「非業の死」とも言える。

 私はこの事故で知り合いを亡くしたが、それでも死人に鞭打つ気はない。非業の死と考えれば、「合祀」も抵抗はない。高見運転士のご家族を思えばなおのことである。「『祀る』ことと『無罪を認める』ことは別次元」なのだ。戦争(靖国)と脱線事故を同列に考えるのは荒っぽいかもしれないが、根っこにある「思い」は同じなのだと思う。
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by seiwadai_walker | 2005-07-14 00:57 | 社会
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とりあえず何か書き綴ります…


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